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平成13年6月30日

  常識問題としての田中外相評価

  マキコ騒動について、専門家の端くれとしては「書きたくない」と思いつつ、「でもやっぱり書かねばならないかな」と思い直す連続でとうとう国会閉幕まで来てしまった。
 私は当初からこの騒動は、米国で進行している「フォード vs. ファイアストン」の泥仕合とよく似ているなと思っている。フォードの社長が米議会の公聴会で、「当社のクルマに全く非はない。タイヤに欠陥があることは明々白々」と遠慮なく言い切ったのに対し、ファイアストンの日本人会長は「申し訳ない」(I apologize...)と言ってはならない謝罪の言葉を口にした。

 外務省の幹部たちはさすがに「申し訳ない」と全面降伏したわけではないが、世間の(特にマスメディア)の扱いはもう外務省が悪役に決まっていて、だからカタキ役のマキコ女史がやることなすことミスパンチばかりだとしても、やがて正しい結果が出るのだから今はいいんだ、と逆に応援倍増になってしまうという展開になった。

 こういう間違った線路に入り込んだような状態は、しかし長くは続かない。タイヤ騒動の方はようやくファイアストンの反撃が功を奏し始め、フォードの4駆「エクスプローラー」に何らかの欠陥がある疑いが公けになってきた。タイヤの表面が剥がれて事故に至ったのは、ファイアストン製品ばかりでないことも分かってきた。何しろ200人以上が事故死していると言われるから、訴訟天国、そしてクルマ文化の国アメリカではたばこ会社訴訟に次ぐ規模の、歴史的な裁判劇になるはずである。

 重要なのは、こうした展開になることは専門家筋には始めから見えていたという点である。世の中の大勢(たいせい)と違う常識が、あるところにはあるということの具体例だ。「そんなに一方的にどちらかに責任があるはずがない」と考えることが大切なのである。

 「外相 vs. 外務省」も同じである。米国のクルマ/タイヤ騒動は議会と裁判所が決着をつけるだろうが、こちらの方は時機を見て責任者の総理大臣が幕を引くしかあるまい。世間の評判ではなく、専門家の評価を聞かざるを得ないケースである。

 ちなみに外相に不可欠の資質、条件というのを一つあげておこう。米国の議員団が韓国を訪ね、金大中大統領と会談した際の会話だが、米議員が北朝鮮に対して甘い態度をとると危険だと指摘したのに対し、金大統領は「私はチェンバレンではない」と答えたという。
 チェンバレンは英国の首相で1938年、ヒットラーのチェコ領ズデーテン進駐を認めてしまい、翌年のポーランド分割占領、第2次世界大戦開始のきっかけを与えたとされている。いわゆる「ミュンヘンの宥和」、すなわち弱腰外交の典型で歴史に悪名を残している人物だ。

 そのことを金大中氏はよく知っていると返事をしたわけで、この一言によって彼は歴史も国際政治の冷酷な現実も知り抜いているプロだと、米議会の要人たちに知らしめたのである。
 こうした会話をマキコ外相はできるだろうか。少なくともこれまでに報道された驚くべき饒舌のなかに、こうした「不可欠の知識」の片鱗も見いだせなかったのは残念というほかはない。(01/06/30)


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