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平成14年1月26日

     米の超法規と日本の法的不備

 米軍はまだカンダハル周辺への空爆を続けている。今ごろになって「大規模な武器貯蔵庫を見つけて破壊した」などと言っている。ビンラディンとオマル師は行方知れずのままだ。
 ホントかな、そのほうが都合がいいからではないかという感じも、なきにしもあらずだ。

 それはそれとして、米軍が捕らえたタリバン兵(アフガン人)、アルカイダ兵(非アフガン人)の取り扱いを巡って潜在的な問題が表面化してきた。戦争捕虜であればジュネーブ諸条約があって、歴史的に積み重ねられた国際慣習に従わなければならない。拷問どころか尋問すら強制的にはできないことになる。
 また一般犯罪の容疑者として扱うなら、当然、弁護人がついて米国内法の手続き(Due process)によって裁くことになる。

 アメリカ政府は、そのどちらでもないという態度をとることにした。戦争捕虜ではないし、一般犯罪の容疑者でもない。武装した非正規兵だという定義で押し通すつもりのようだ。つまり従来の戦争の常識でいうと、国際法の保護を受けられない武装スパイ、後方攪乱要員ということになる。

 ちなみに旧日本軍のいわゆる「南京事件」というのは、この武装した非正規兵を捕らえて「処刑」したことが、のちに拡大宣伝の材料にされてしまったとも言われる。しかしこれは国際法上、許容範囲の戦闘行為であって、戦闘員は正規の軍服を着用し、階級章を付けていないと国際法の保護を受けられない。「だから自衛隊も早く、ROE (Rules of Engagement=交戦規定)を制定しておかないと、知らずして相手方から同じ扱いを受けることになりかねない」という危惧がささやかれているのである。

 閑話休題。捕らえたタリバン兵、アルカイダ兵の全員をそう定義するのはムリである。人数すら発表されていないが、おそらく4千人を超えているようだ。そのうち百数十人をキューバのグアンタナモ米軍基地に連行してきたことで、その非人道的な扱いがテレビで全世界に報道されてしまった。

 アルカイダ兵の中には英国籍3人のほかフランス籍、ベルギー籍などもいるといわれ、にわかに欧州世論が米国批判に変わり始めた。張り切りボーイのようだったブレア首相への風当たりも強くなった。
 それだけでなく、アメリカ白人のジョン・ウォーカー兵士だけはさっさと米国に連れ戻し、両親にも会わせて国内法で裁くというご都合ぶりで同盟諸国をとまどわせている。

 私はテロ直後の昨年9月16日、「サンデープロジェクト」に出演した際、「米国が戦争だというなら国際法、国内法の制約を受けることになる」と指摘した。
 誰も乗ってこなかったが、今になって戦争だと言い切ったことのツケが回ってきたことになる。人権を掲げて戦争を始めると、アメリカ自体の二重基準が露呈されてしまうという歴史の繰り返しである。

 これを強者の超法規的行動と見れば、日本は不審船事件で弱者の法的不備を露呈したと言えよう。まさに対称的である。

 たまたまテロ後の特別措置法に関連して、海上保安庁法も改正され、「無害航行でない航行を我が国の内水または領海において現に行っている」外国船に対し、停戦命令を無視したときは船体射撃できるようになった。その矢先の出来事だった。
 非常事態にやっと規定し得たことを、直後に時代遅れに追い込むような海上戦闘が現実のものとなったのである。

 「領海内であれば」というのは99年3月の能登半島沖の不審船事件の後追いでしかなかった。今回は排他的経済水域だから漁業法違反で停戦命令を出すしかなく、船体射撃は「警察官職務執行法」を援用して「逃げるクルマのタイヤを撃つ」のと同じという苦しい説明になった。

 今回は相手の船が追いつめられて発砲したため、やっと正当防衛の応射ができ、結果的には相手の無法ぶりが証明されて終わった。しかし、もし船を拿捕できて、しかも双方に死傷者が出ていたとしたら、国内法の不備がのちの裁判に大きく影響しただろうと思われる。
 タイヤを撃ったつもりの拳銃弾がクルマの中の逃走犯を死傷させた場合、やはり法的な問題は生じる。

 そこで結論。この種の事件は始めから巡視船が対処すべきものではない。だいたい、不審船というような遠慮がちな呼び方を誰が考えたのだろうか?
 工作船でもまだ生ぬるい。小学生の工作でもあるまいに。

 あの種の船は正真正銘の「特殊部隊」である。米軍などに関しては遠慮なく特殊部隊というのに、かの国に関してはなぜそう言わないのだろうか?

 今回の銃撃戦は紛れもなく、特殊部隊と巡視船の交戦であった。日本側の負傷者があの程度で済んだのは奇跡とも言える。次は相手がもっと重武装で来ることを想定しなければならない。ということは、もはや巡視船の役割を超えていて、海上自衛隊の守備範囲ということになる。
 そこで国内政治や官庁の縄張り争いを引きずっていては、現場に犠牲者が出るにまかせるということと同じであろう。戦後2度目の「交戦」に間に合うよう手を打つのは政治家の責任である。(02/01/26)


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