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平成14年6月18日

        サッカーW杯と印パ戦争瀬戸際の関係

 日本代表チームの敗退を見た。これでひと区切りということで、サッカーを国際政治的に分析してみたい。

 これまでサッカーをこれほどマジメに観戦(テレビだが)したことがなかったので、初めて気づいたことが幾つかある。その一つは、主審がこれほどゲームの内容を左右できるのかというオドロキだ。

 良くも悪くも、韓国・ポルトガル戦で審判(アルゼンチン)がポルトガル側を2人も退場させてしまったことは、いくらなんでもやりすぎだった。
たとえそれだけのファウルがあったと判断しても、2人減らしてしまえばまともな試合にならないということぐらいは分かっているはずだ。

 かねてから開催国が予選敗退した前例はないといわれていた。もし決勝リーグに進めなければ、そんな弱い国で開催すると決めたこと自体が正しくなかったという陰口をきかれる。これはサッカー先進国の一種のクラブ意識、つまりプライドの問題である。だから、あの審判はやはりFIFAの意を体して、ある種の行動をあえてとったと見ることもできるのである。

 そうした具体例でなく、たとえば本当に倒されたか、あるいはシミュレーションだったかを瞬時に判断してどちらかに決めるのは主審1人だから、その判断でプラスとマイナスがどちらにでもなる。中間がない。

 相撲ならば、主審(行司)が軍配を上げても、勝負検査役4人と控え力士2人が物言いをつけることができる(スゴイ民主主義!)。

 サッカーの場合は主審の意思ひとつで試合の進行をかなりコントロールでき、その結果として勝敗まで左右できる可能性が高い(異論があればどうぞ連絡を)。

   ここで話題を転じてゴルフを見てみよう。
 ゴルフは審判がいない。自分で勝手にプレーして、その結果を申告する。ズルは許されない。同じ英国起源のスポーツなのにサッカーとは正反対の性格を持っているように見える。

 ゴルフは審判がいないこととマナーに厳しいことから紳士のスポーツといわれるが、実際には羊飼いの少年が退屈しのぎに木の杖で石ころを転がして進んでいったのが始まりだという。初めから紳士のスポーツだったわけではない。
 自己申告で、誰も見ていなくてもズルをしないというのが、後にだんだんと英国の自己イメージの宣伝と相まって、ゴルフを紳士のスポーツとして完成させていったのだろう。ちなみに日本では、エライさんほどこの暗黙のルールを守らないという噂を聞いたことがある。

 他方、サッカーは本当の戦争(戦闘)をゲーム化したものだという。相手の何段構えの陣形を突破して、タマを本陣に叩き込む。もっとも単純な戦闘行為である。なにも英国に限らず、どこの地方に起こっても不思議はないゲームだ。現に韓国ではサッカーに似たゲームが古くからあったという説を唱えて国際的に話題となった(嗤われたという意味)。

 さて核心に迫ろう。ゴルフと全然違うのにサッカーが英国で生まれ発達した理由は、ほかでもないあの「主審」の存在にあるのではないか。

 主審は両軍の間に立ち、戦局を支配する。どちらかに勝たせようと思えばそれもできる。引き分けにしようと謀れば、それも可能だ。それが英国の役割ということである。

 英国の有名な「Divide and rule」という植民地戦略を思い出していただきたい。これはよく「分割統治」と訳されるが、実際には誤訳に近い。正確には「現地民族を分裂させ互いに争わせて宗主国に頼らせる」という意味である。

 英国がサッカーを発達させ、旧植民地を巻き込んで世界的なスポーツに仕立て上げた背景には、英国自体が主審なのだという暗黙の自己投影があったのではないだろうか。

 アメリカがサッカーに興味を持たない理由も、それで説明できるのではないだろうか。アメリカは「英国という主審」をひどく嫌うのだ。これは本能的と言っていい。オフサイドというようなわかりにくいルールは、どちらかの得点を事後になしとするトリックのように見える。アメリカ人がもっとも嫌う仕掛けである。

 W杯と重なって、インド・パキスタン間で核戦争もというような緊張が生まれた。これは偶然だろうか?

   この2国こそ、「Divide and rule」の犠牲者筆頭といっていい。絵に描いたように英国に操られて分裂し、これまで3度の戦争を経験した。次は核戦争となる可能性が高まっている。そうならなくても、全面戦争になればパキスタンは消滅するかもしれない。おそらく英国はアメリカを使って、弱い方に荷担させ、両軍が拮抗して引き分けになるように仕向けるだろう。

 主審は、実に巧妙に、なんでもできるのである。(02/06/19)


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