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平成14年7月17日

       首長と地方議員が多すぎる不幸

 長野県の田中康夫知事が不信任され、解散でなく失職を選んで出直すもようだ。再立候補、選挙運動、そして秋口の投票、開票、初登庁(?)と、実に話題づくりのうまいお人だ。

 このいかにもワイドショー的政治ネタは一見、誰でもなんでも一言いえそうな気がする。しかし、これが意外に難しい。何が本質の問題なのか、よく分からないのである。だからシロウト・クロウトのコメンテーターたちも、「もっと県議会と折り合いをつけるべきだ」とか「ぬいぐるみが言語道断」とか、あげくの果てに「知事室で美女を膝に乗せて、、」といった具合に話が拡散してしまう。

 県議たちの多くは知事が大嫌いだったようだ。あまりにも嫌っていたので、とうとう理性を失って不信任案を出し、可決してしまったということに尽きる。あとの成算はない。
 解散されても自分だけは再選と踏んだ議員が多かったのだろうが、その場合でも知事との関係は変わらない。そこでもう一度、不信任すれば辞任させることはできる(解散は不可)。しかし、田中氏が再出馬することは可能だから、やはり当選する可能性は高い。

 どう転んでも事態は大きく変わらないのだ。そこで事態の本質は何だろうかと考えてみると、少し分かってくる。
 それは田中知事が「議会を必要としていない」ということではないか?
   「知事の足を引っ張る議会はいらない」ということである。就任以来、田中氏は議会と折り合いをつける努力をほとんどしてこなかったと非難されている。それでも6割以上の支持を県民から取り付けているのだから、議会はいらないといえるのではないだろうか。

 そうはっきりいえないから、ただ相手にしないという態度を貫いたのだろう。県議が怒ってついに頭にきたのも当然である。県議の存在価値は権威にある。陳情にきた地元民、地元企業者を連れて知事に面会し、地元の要請を取り次いで色好い返事を引き出す。それが彼らの仕事であり、プライドであった。

 人間、仕事よりも、ある場合はプライドを傷つけられたときに怒り狂うものだ。田中知事が県民にウケて、同時に県民の代表でもある県議たちから蛇蝎のごとく嫌われた理由は、おそらくその辺にあるのだろう。

 これは民主制度の欠陥のように見えるが決してそうではない。よく「知事と議会はクルマの両輪のようなものだから云々」というような説教の類を聞くことがあるが、それは間違いである。知事(首長)と議会はどちらも必要不可欠なものではない。

 日本には地方自治体(法律では地方公共団体)が約3千3百あるが、なんとそのすべてに首長と議員が選挙で選ばれることになっている。この費用たるや莫大なものだ。
 アメリカには地方自治体が同じぐらいの数しかないが、日本のように首長と議員が両方いる自治体は半分くらいだといわれる。50の州は別として(国に準ずる存在だから)、ちょっと大きい市では議会がシティーマネージャーを雇って行政をまかせるのが普通だ。市長職は互選であまり権限を持たない例が多い。これを「Weak Mayer」制と呼んでいる。アメリカだけでなく英語圏の国ではごく一般的だ。議員の数は多くても10人程度で、長野県の60人とは比べものにならない。

 この制度は首長が大ボスになって君臨する「Strong Mayer」の弊害を経験したあとに生み出されたものだという。なにやら田中氏の前任知事を思い出すだろう。

 田中知事も同じかというと、これは全然違うといえる。なぜなら、彼は自分のシンパの県議団を持とうとしないからだ。そういう気がそもそもないらしい。議会はいらないのだ。

 さてそうなると、欠陥は民主主義そのものにあるのではなくて、画一的にどんな自治体でも首長と議会を選挙で選んで任命し、維持しなければならないという制度にあるのだと考えられる(地方自治法第17条)。

 あの選挙好きのアメリカ人でさえ、この欠陥に気がついてとっくに是正しているのである。日本でも、有権者の選択によって首長か議会のどちらかを選挙すればいいことにしたらどうだろうか?

 現在のところ、3千3百の議会で悪いところまで国会を真似たミニ国会をやっているのである。「本会議」で「代表質問」と称してお役人につくらせた「質問書を棒読み」するといったところまで、そっくりさんのようだ。そういうなれあい文化の中に田中ぬいぐるみ文化が持ち込まれたのだから、はじめから破局は規定のコースだった。

 いま急場の長野県知事選に間に合う話ではないが、地方に特色を求め、魅力ある地方づくりを競うならば、全国みな同じの金太郎飴議会を多様化するのは当然であろう。その選択の中には「議会はなし」(住民代表はある)というのももちろん入るはずである。(02/07/17)


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