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平成17年10月30日

          戦艦大和の悪弊受け継ぐ自民党憲法案

 日本が得意とするモノつくりには、2通りの対照的な思想があるといわれる。一つは「ゼロ戦」に代表される単機能追求型であり、もう一つは「戦艦大和」に代表される万能追求型である。

 ゼロ戦(零式艦上戦闘機)は攻撃性能をトコトン追求して成功した。その成功例を見ながらも、海軍は攻撃力と防御力の二兎を追った完璧な戦艦2隻を完成させた。就役したときにはもう航空援護がなくて出撃できず、全艦エアコン完備だったから大和ホテルと皮肉られた。

 戦後の日本はその教訓を全く学んでいないように思われる。兵器の例でいえば、自前開発の支援戦闘機(対地攻撃機)や戦車がそうである。いずれも機能や目的を絞り込んで設計するという思想を欠いたまま今日に至っている。
 何でもかんでも要求性能を盛り込んで、価格は上昇し、兵器に必要な余裕が少ない完成品となる。カタログ性能と価格だけは世界一という国産戦車は、74式以降「戦車のロールスロイス」と崇められ、戦艦大和の伝統を余すところなく受け継いでいる。

 自民党が28日に決定した「新憲法草案」を見ると、これも明らかに大和型だなということがわかる。大勢で何事かを議論すれば、結論はごく当たり前のことに収斂する。みんなが満足のいくようにすれば、何でもかんでも盛り込んでしまえということになる。後で何かが抜けていると言われることを恐れ、条文と文言は増える一方となる。

 法律のたぐいは漢代の昔から「法三章」というぐらいで、単純明快なのを良しとする。聖徳太子の「憲法17条」、明治維新の「五箇条の御誓文」も、その趣旨をよく表している。法律の上に立つ憲法ではなおさら、国家の理念と骨格を明示するだけでよく、細則は法律として定めるのが当然である。

 私が講義しているアメリカ憲法は、この点で及第点がつけられる。きわめて短い前文を入れて全文25条しかない。これに憲法修正の1−10条がいわゆる「権利章典」(基本的人権)として一体のものと認識されているので、合計して35条ということになる。

 これに対して現行憲法は前文を入れて100条もあり、今回発表の自民党改憲案もその条項にそれぞれ改正を試みたものだから、そっくり同じ構成で100条に及んでいる。

 これがまず落第である。なぜ最初に、新憲法草案は50条以内にとどめるといった枠をはめなかったのだろうか。そうすれば、現行憲法にとらわれず、本当に自前の憲法案を考えざるを得なかっただろう。大学のいわゆる「逐条講義」しか知らない議員たちが、100条それぞれの条文に漏れなく学問的疑義や各方面からの抗議を受けることのないようにと用心し、文言を増やしていったプロセスがよくわかる。

 たとえばの試案だが、前文と第1章「天皇」(8条)の計9項目は全部なくして、次のような前文たった1行ですむのではないだろうか。


 「日本は、名目的な元首である天皇を戴く立憲君主国である。」


 これだけで、あとは法律にまかせればよい。余計なことを何でもかんでも憲法に書き込もうとする発想そのものを改革しなければ、改憲自体が歴史に汚点を加えることになりかねない。

 いちいち全部をとりあげるわけにはいかないが、たとえば「義務教育は、無償とする」(第26条)というような憲法条文にふさわしくない規程や、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」(第25条)という悪評高い条文がそのまま踏襲されているのは、これらを削れば特定の政治勢力から強力な反発が予想されるからだろう。
 ちなみに後者の「最低限度の生活云々」は、理念であって具体的基準を示したものではないのに、この条文を根拠として何度も訴訟が起こされてきた。

 このように理念表明と具体的規程(禁止を含む)が滅茶苦茶に混在しているのが現行憲法の欠点のひとつであり、それを根本から整理し直さなければ改憲の目的は達せられない。

 そのためには、全体の規模や語数を半分以下にして、さらに英語に翻訳して意味が通るかどうかを検証してみるとよい(翻訳不可能というのは論外)。そうすれば主語が何かが明確になるだろう。主語なし、あるいは、「国民は」「すべて国民は」「何人も」というような、主語の曖昧さがそのまま残るような新憲法は願い下げにしたいものだ。(05/10/30) 


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