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平成18年7月29日

        皇室存続を危うくした「富田メモ」大暴露

 日経新聞は7月20日朝刊で「天皇発言メモ」をスクープしたとき、これで長期的に皇室を衰微させる口火を切ったと十分自覚していたのだろうか?

 そう聞いてみたくなるほど、あれは実に恐ろしい暴露だった。しかし日経を始めとして、ほとんどのメディアも国民の大多数も、その恐ろしさにまだ気がついていないように思われる。
 問題は数多いが、重要な点を2つに絞って指摘してみたい。

 まず第1に、この天皇発言とされるメモが本物であれ偽物であれ、「私」という一人称の発言が記録されていること自体が、皇室にとって致命的な打撃になるということである。
 
 このメモの公表によって、すべての皇室メンバーは「側近」を持つことが不可能になってしまった。これがこのメモ問題の核心である。

 もはや「側近といえども心を許してモノを言うことができない」と考えない皇族はいないだろう。しかも富田メモは宮内庁長官という最高位の側近(終戦前なら宮内大臣)が、天皇の私的発言を「私」という主語で書き留めている(ようだ)。間接話法ですら、ない。こんな「側近」が、かつて存在しただろうか?

 現行憲法の下では皇室に元老や華族貴族の取り巻きはいない。君主一家としては世界で最も孤立無援と言えるだろう。システムとしての皇室を支え、同時に私的な問題にもブレーンとして助言するのは宮内庁の官僚以外にはない。

 その官僚が自らの保身のため、あるいはもっと良からぬ企てのために、皇族の日常の片言隻句を、そのまま書き留めておいたらどういうことになるだろうか。
 富田朝彦長官は警察官僚上がりで、習慣として職務日誌をつけている感覚だったのだろうという同情論も成り立つ。しかし、それ自体が側近としての自己否定になる、という見方も同時に成り立つ。つまり側近ではなく、システムの管理者としての官僚でしかなかったということである。

 現に富田氏の意向に反して、膨大な日記や手帳類が遺族の手によってマスコミの目にさらされることになった。未亡人は夫の日記の出版を望み、自ら編集して丸谷才一氏の元に持ち込んだという(「週刊文春」8月3日号)。

 遺族の思惑もさることながら、本来、書いてはいけないことを書き残してしまったご本人が責めを負わなければならない。
 その責めとは、7月20日以来、皇室には「側近もいなくなった」ことの結果である。

 今上天皇の皇太子時代、小泉信三という帝王学の「教育掛」がいた。父子二代の慶応義塾長で反共リベラル。古武士の風格ながら政治学、経済学と西欧の古典に通じた最高の教育者だった。
 こういう最適な人物がいなくなって久しいが、今後はいるいないということが問題なのではなく、あとで皇太子発言が書き留められていたらどうするということを問題にせざるを得なくなった。

 同じように、もはや「ご学友」も「恩師」も存在し得なくなる。幼稚園から大学まで、誰が皇族(園児・生徒・学生)の発言を日常的に書き留めているか分からない。もっと恐ろしい隠し録音という方法もある。
 そうしたことをしないという暗黙の前提が、今回の日経スクープによって完全に突き崩されてしまったのである。

 皇族のすべてが今後、唯一の支えである側近を失い、なかでも未成年皇族は学友も恩師も信じられないまま成人するという時代に、突然、なってしまった。

 実は、この前兆ともいうべき事態が、今年の2月に起きていた。同月7日午後、NHKの国会中継の画面に突然、「秋篠宮妃の紀子さまがご懐妊」という臨時ニュースが流れた。日本中が久々の朗報に湧いたが、なんとこの速報が夫君の秋篠宮殿下に報告される前だったという事実がやがて明らかにされた。

 つまり、ごく限られた宮内庁医療チームの中に、NHKと結託して携帯電話でリークする者がいたということである。守秘義務をたたき込まれているはずの医療関係者でさえこういうありさまであり、それを誰もどうすることもできないという現状が露呈された。

 この仰天早業リークがあったからこそ、7月18日に主治医は、紀子妃殿下のご出産が部分前置胎盤のために帝王切開になるという発表をせざるを得なくなった。特に危険な状態でもないのに、発表しないと誰が何をリークして不必要な報道合戦が起きないとも限らない。それを危惧して早めに手を打つ。女性皇族の検診結果まで公表せざるを得なくなったのだ。

 時系列では富田メモのほうが何年も前なので、ご懐妊リーク問題はむしろ、現在の皇室を支えるシステムが確実に腐ってきていることを、証明していると見るべきだろう。

 恐ろしい問題の第2点は、富田メモに記されている「私」が「A級」の数人が靖国に合祀されているのを嫌い、そのために参拝していないと明言していることである。

 これは日本人の常識に著しく反する論理である。神社であれ寺であれ、気にくわない誰かが祀られ、あるいは埋葬されていることはあり得るが、それを理由にお参りしないという人はいない。日本だけでなく、アーリントン軍人墓地でも同じで、反乱軍の南軍の将兵も埋葬されているが、だからといって参拝しないという大統領はいない。

 天皇という存在は「無私」が基本であると考えれば、数人の文民合祀者がいるからといって、そのために幕末以来の戦没者全員に哀悼の意を表しに行かないということはあり得ない。

 実際には、昭和天皇も今上天皇も、毎年欠かさず侍従を代参させているので、その際に靖国神社宮司に対して、この参拝はA級戦犯(の誰々)を除く246万余の英霊に対するものだと念を押しているかどうか。是非、それを明らかにしてもらいたいものだ。
 
 そういう除外表明がないならば、富田メモの「私」は昭和天皇ではない、あるいは正確に記憶してメモしたものではないという結論に達するだろう。
 そして、昭和天皇の「無私」を確認し、靖国騒動を終結に持っていけるのは結局、今上天皇の意思ひとつだということになっていくのではないだろうか。(06/07/29)


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