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平成19年7月1日

      ソ連の北海道占領計画を知らしめた久間発言

 久間章生防衛相が6月30日、終戦時の原爆投下に関して不正確な発言をし、また余計な反響を拡げている。

 久間氏はいわゆる防衛族議員であり、2度目の防衛庁長官から省に昇格した防衛省の初代大臣に継続就任した専門家である。その人でさえ事実関係がよくわかっていないようなので、ここでは発言の意図などを論じることなく、事実だけを3点、指摘しておくことにする。

 第1に、米首脳の原爆使用の意図が何であれ、それがソ連の対日参戦を防ぐことには繋がらなかった。ソ連の中立条約破棄(対日宣戦布告)は、ヒロシマとナガサキの中間に、急いで実行されている。
 すなわち1945年の7月26日ポツダム宣言(ソ連抜き)、8月6日広島原爆のあと、同8日ソ連の対日参戦、同9日長崎原爆、同14日ポツダム宣言受諾と続いて、15日に天皇の終戦宣言で戦争は終わったことになっている。

 これだけ見ても、原爆使用はソ連の対日攻撃を阻止するどころか、むしろ準備万端直前のスターリンを激怒させ、ためらうことなく開戦に踏み切らせたことが窺える。ポツダム会談中の7月24日に、スターリンはトルーマンから原爆実験成功を知らされたあと、宣言(米英中)からも外された。この二重の恨みが、かねてからの北海道占領の意志を固めさせたのだろうと推測される。

 第2の事実は、米軍が8月15日正午をもって戦闘を終結したのに対し、ソ連は同18日に「9月1日までに北海道の北半分(留萌市と釧路市を結ぶ線から北)とクリル(千島)列島南部を占領する」よう命令を発していることである。 

 これは、同16日にスターリンがトルーマンに対し「千島列島と北海道の北半分を占領したい」と要求し、厳しくハネつけられたことへのお返しであった。すなわち、ソ連の北海道占領要求は15日の終戦の翌日であって、その要求が原爆使用によって阻止されたわけではない。久間防衛相がそういうように誤解しているとすれば、訂正しておかなければならない。
 
 第3の事実は、ソ連軍の北海道上陸作戦は実行に移され、実戦部隊を乗せた艦船が留萌の沖合にまで迫ったことである。国際政治学者の舛添要一参院議員は久間発言にコメントして、「ソ連軍が北海道を確実に占領したかは分からず、間違った歴史解釈だ」と批判したが(東京新聞、7/1)、そんな曖昧な事態だったのではない。
 実際に、ソ連軍の上陸が目前に迫っていたのであって、もしスターリンの気が変わらなかったら、即応する米軍はいなかったのだから、どうすることもできなかったはずである。

 しかし、何ごとかが起きて、上陸寸前のソ連軍は同22日、突然、転進命令を受け、北海道の北を回って南千島の占領に向かった。そして同じ日、ポツダム宣言で日本帰還を約束されていた満州の日本軍捕虜60万以上を、シベリアに移送して労働に使役する命令が発せられた。この2つの方針転換が相関していることは疑うべくもない。

 スターリンを土壇場で変心させた決定的要因は何だったのか、未だに謎のままである。一旦はトルーマンの拒絶を無視したほど強気だったスターリン(鉄の男というあだ名)が、北海道を断念する代償として日本軍捕虜の使役で満足したのだろうか?
 「北半分」といっても天然の境界はない。スターリンの本音は北海道の全部であり、その野心を実現した暁には、北海道の住民を全部シベリアに拉致し、代わりにロシア人を大量に移住させるつもりだったに違いない。それが、ロシア的思考というものである。

 ソ連の対日軍事行動は、結局9月5日まで続けられ、北海道の属島である(千島列島に含まれない)色丹島、歯舞諸島まで占領して、ようやく終わった。(07/07/01)
 

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