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平成19年7月28日

         楽しい投票奨励策を国民的課題に

 選挙の投票日が近づくと、必ず「投票は義務か権利か」という話題が出てくる。しかし、これほどナンセンスな議論はない。

 なぜならば、戦後の日本では、「強制」の代わりに義務という熟語をあてて、国民が自分自身を欺いてしまったからである。

 本来の義務とは、強制されずに自分の意思で、「権利を担保する」行動に出ることを意味する。アメリカ憲法には義務という概念そのものがなく、権利を明示することによって、その権利を担保するための行動が自然に分かるようになっている。
 いちばんいい例は陪審制の規定で、「すべての犯罪の裁判は、弾劾のケースを除いて、陪審によるものとする」となっている。これは、陪審を受ける権利を保証したものだが、その権利を国民が行使するためには、他人の裁判の陪審員を務めなければならないということが分かる。

 もし、国民がみな、「陪審なんていう面倒なシゴトはごめんだ」といって回避したとしたら、制度そのものが成り立たなくなる。したがって自分の権利を担保するためには、強制されなくても、あるいは罰則がなくても、陪審員に選ばれたら引き受けるのが当然という論理になる。

 これに反して日本では、「教育」も「納税」も、憲法で国民の「義務」と謳いながら、実際は罰則をともなう強制だとみんな知っている。そして、どこにも本来の権利が書かれていない。米国憲法では、納税と下院議席数割り当てが人口比でセットになっている。日本では、納税に見合う権利がない。

 三大義務と呼ばれる残りの一つ、「勤労」に至っては、なんと「権利を有し、義務を負ふ」と同意義にされてしまっている。権利の意味も不明だが、強制教育、強制納税に次いで、強制勤労という概念を国民が受け入れていることになる。

 最近、総務大臣が、NHKの受信料を「義務化」したら2割下げることができるだろう、と提案した。この義務も「強制」という意味であることは明らかだ。なぜ、強制化と言わないのだろうか?

 ところで話を戻すが、投票を強制化しているのは、世界でオーストラリアだけのようだ。これを「義務化」とか「義務づけ」と呼んではいけない。余計に混乱するだけだ。

 オーストラリアでは、18歳時の有権者登録からして罰金付きの強制であり、実際の投票を行わないと、また、最高百ドル以下の罰金が科せられる。窓口に出向くか、小切手を送るなどして、否応なく払わされる羽目になる。

 ほかに西欧ではベルギー、ルクセンブルグ、ギリシアなど、南米ではアルゼンチンなど数ヵ国、アジアではフィリピンなど、計十数ヵ国が何らかの法令で投票を強制している。しかしオーストラリアのような罰則は聞いたことがないので、こういうのは制度的義務と呼ぶべきだろう。 

 面白いのはイタリアである。ジローラモ氏によると、正当な理由なしに投票を怠ると氏名が公表され、官報の類に5年間、さらし者になるのだそうだ。
 それよりもユニークなのは、「投票の目的で故郷の選挙区へ戻る場合、国鉄料金が70%オフ。国外居住者は国境までの運賃が30%オフ、国内国鉄運賃は無料」になる。だから、選挙は故郷の家族に会う絶好のチャンスを提供することになり、投票率はおのずから高くなるという(産経新聞、7/19)。

 イタリア人は天才か、と感心せざるを得ない発想である。たしかに罰則よりも奨励の方が効き目があるはずだ。人の心をよく理解した上で考え出された良策である。
 
 日本もイタリアに負けない洒脱な、いかにも強制という感じがしない、そして海外からも模範とされるような発想と仕組みを、考えてみてはどうだろうか。
 憲法改正のための国民投票法も成立したところだ。すべての投票率を高く保つために、義務か権利かといった無意味な議論にとらわれることなく、国民が喜んで自発的に投票に行くような奨励策を、案出することが不可欠である。

 参院選後の国民的課題の一つとして、ぜひ提案しておきたい。(07/07/28)


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