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国際政策コラム<よむ地球きる世界>No.160
    by 大礒正美(国際政治学者、シンクタンク大礒事務所代表)

平成24年8月15日

          君が代の本旨は「ありがとう」だ

 ロンドン五輪では、幸い7回も日本国家「君が代」を聞くことができた。
 しかし、こういう場面以外では、国歌を進んで歌う人は少なく、逆に信念として反感をあらわにする人が絶えない。

 同時期に発売された保守系週刊誌で、80歳近い有名作家が「君が代」を「天皇が統治されるこの世は、、」と解説し、そんな時代が終わって70年近く経っているのに、いまだに歌わせること自体が疑問だと断じている。

 この人のように戦前戦中に教育を受けた世代は、戦後の日教組イデオロギーと結果的に同じ拒否反応を持っているのかもしれない。

 たしかに明治時代から現在に至るまで、「君が代」とは天皇の治世のことだと国民に教えている。それが間違いであることも、今日では分かっているはずなのに、政府は是正しようとしない。そこが問題の本質である。

 もともと「君が代」は1千百年ほど前の「古今和歌集」に収録された詠み人知らずの「賀歌」であり、初期本では「わが君は、、」で始まっていたとされる。

 いうまでもなく「君」は単純にあなた(You)という日本語である。明治にも与謝野晶子が弟に対して「君死にたまふことなかれ」と詠んだように、決して君主を意味するものではない。

 千年も前の「うた」は字で読むより朗々と詠唱するものだった。テレビで見る「歌会始の儀」の通りだ。したがって、目の前にいる人に「わが君は」といっても「君が代は」といっても同じで、主語は「ユアライフ」である。

 次に、現代人の盲点だが、「賀歌」は年賀でも誕生祝いでも同じで、区別はない。なぜなら年が明けるとみんな一斉に「歳をとる」。すなわち「数え年」の文化だ。

 そうなると「君が代」の意味が深いのは前段ではなく、後段の文言ゆえだということが分かってくるだろう。 

(前段)君が代は 千代に八千代に
(後段)さざれ(細)石の 巌と成りて 苔の生すまで

 上記の高齢作家はこの後段を「誤りがある」と切って捨て、大きな巌がだんだん崩れて小石になるはずだから科学的に逆だと述べている。

 政府見解では「それほど長い年月」という意味だとしているが、それではご本人を前にして朗々と詠うほどの内容ではない。

 大切なのはご本人の長寿を祝い、感謝を込めることである。農耕社会では年を重ねるほどに気象情報と自然条件が頭と身体に蓄積されていく。長老は歩くコンピューターである。

 とりわけ稲作文明と台風襲来を抱えた日本では、長寿者の役割が大きかった。いわゆる狩猟社会なら、運動能力が衰えた老人は足手まといになるだけだ。
 それが分かると後段は、小さな赤ん坊がすくすく育ち、立派な青年になり、そして一族郎党を率いる長老になった、と称賛する「たとえ」だと気がつくはずだ。

 そこでまず文語調で直訳してみれば、、、

    あなたの一生、末永くあれ
    玉のような赤子、たくましく成人し、白髪となりし後もなお

、、、というような表現になるだろうか。

 これで称賛、尊敬の念は込められたが、ご本人を前にした家族、一族の感謝の気持ちを汲み取るには、思い切って現代口語訳にしたほうが分かりやすい。

(大礒による現代訳)
 爺ちゃん、誕生日おめでとう、もっともっと長生きしてね
 生まれた時を想像できないけれど、こんな仰ぎ見る長老に
 なってくれて、ありがとう

 どうだろうか? 農耕社会、長老、賀歌、というキーワードから、この歌が千年以上も歌い継がれてきた理由にたどり着いた。
 賀歌「君が代」の神髄は後段の比喩にある。単に「長い年月」の意味だとしたら、日本人の心の琴線に触れることはない。

 これほどの名歌なのに、明治政府が「天皇の御代は千年も万年も」というようにこじつけたため、後段が全く死んでしまい、意味の分からない呪文のような歌詞になってしまった。
 明治政府の罪は巨岩のように重い。

 高齢化社会に突入した今、高齢者を称え感謝するという国歌の本来の意味を、正しく認識し直すよう各方面に要望したい。
 日本人の心を詠んだもう一つの名歌「いろは歌」と二つ並べると、いっそう理解し易くなると思われる。(おおいそ・まさよし 2012/08/15)


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