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国際政策コラム<よむ地球きる世界>No.223
  by 大礒正美(国際政治学者、シンクタンク大礒事務所代表)

平成29年10月30日

     銃社会の本質理解---米憲法修正第2条の正訳も

 ほぼ10年前に、当コラムで米国憲法修正第2条の正しい「意訳」を提示したが、その後も一向にわけの分からない訳文を、乱射事件が起きるたびにメディアが引用するので、今月1日のラスベガスの大惨事を契機に改めて再論せざるを得なくなった。

(以下は部分再掲)
 憲法修正第2条は何をどう規定しているのだろうか。よく新聞などで簡単に紹介されているのは、こういう表現である。
 「規律ある民兵は自由な国家の安全保障にとって必要であるから、国民が武器を所有し携帯する権利は侵してはならない」。

 はっきり言って、これは誤訳というよりも意味をなしていない。「規律ある」「民兵」など、実際にはありえない。これは「正当に組織された」「義勇兵」という意味である。
 すなわち正規軍、正規兵ではないが、公的任命を受けて組織される准軍隊ということだ。

 民兵といったら「私兵」の意味になってしまう。ミリシアという英語にはそういう意味もあるが、この場合は逆の「公兵」と解さなければおかしい。

 また「自由な国家」の「安全保障」なら正規軍の任務であるから、これも全くの誤訳である。
 正しくは、「コミュニティー(邦)が連邦政府に圧迫されることのないように」という意味である。

 13のステート(邦、のち州)が合衆国を形成するに当たり、強大な連邦政府ができることを警戒し、いざとなれば抵抗する権利を、本条の前半で宣言しているのである。

 当然、その権利を行使するためには武器が必要であり、一朝ことあるときには武器を持って馳せ参ずる潜在的義勇兵がいなければならない。それが後半の意味である。

 かくて、この修正第2条の意味を完全に汲み取って訳し直してみれば、以下のようになる。

米国憲法修正条項第2条(大礒による意訳)
 連邦政府に対する潜在的抵抗権(自由権)を確保する必要から、正当に組織された義勇軍は禁止されてはならず、
(したがって)義勇兵となるべき邦(州)民が自己の武器を保有し携帯する権利もまた、連邦政府によって侵害されてはならない。

 これなら、よく分かるだろう。日本でもアメリカでも、自己防衛のために武装する権利を保証した条文だと誤解されるきらいがあるが、武器を持つ権利は第一義的にコミュニティーの自由を守るためと定められているのである。

 それが分かると、何のことはない。日本の武士だって自分のためでなく、お家のために日頃武芸を鍛錬し、非常呼集に備えていた。
 そのためには自分の刀、槍、などを保有し、道場などに持ち運ぶことが必要になる。お上の支給品や借り物では十分な働きができない。

 アメリカの特異さは、警戒すべき相手方が連邦政府なので、この権利を連邦政府が奪ったり、弱めたりすることができないことである。
 憲法上、そういう規制ができるのは州政府またはその下の自治体、すなわちコミュニティー自体である。(08/01/30)(以上、再掲終わり)

 「義勇兵」というのが日本人には分かりにくいと思われるが、これこそハリウッド映画を見るとよく分かるという好例である。

 アメリカの独立戦争を描いたメル・ギブソン主演の「パトリオット」(2000年)では、南部の農園主ギブソンが正規軍の司令官から「戦場辞令で大佐に任命」という命令書を受け、農民義勇軍を組織して英国軍と戦うことになる。

 長男(ヒース・レジャー)は正規軍の伍長だが、父の部下となって村々を回り、義勇兵を募る。自分たちの村を守るために立ち上がった老若未成年者に牧師まで加わって、みな自前の長銃、短銃、ナイフなどを携えて集まってくる。

 ここがミソで、正規軍本部やお上からの支給品などは存在しないのである。

 この時代の銃は火縄式から少し進歩した「火打ち石」式で、銃口から火薬と鉛の丸玉を棒で押し込んでから発射体勢に入る。連射するにはよほど日頃から手になじんでいなければならない。

 第2条の後半で「武器を所有し携帯する権利」と念を押しているのは、そういう時代背景があるからである。

 もともと修正1〜10条は「権利章典」と言われる追加条項で、「言論の自由」など国民の基本的権利を保証した連邦政府の約束なので、時代が進んでも政府は守るしかない立場なのである。

 銃器の性能は進化し、犯罪にも多く使われるが、米国民が西部劇時代から執着する回転式ピストルと1発ごとにレバーで装填するライフル銃、2連式散弾銃程度の武器所有ならば、近年までほとんど何の問題もなかったのである。

 それが、今回のラスベガスの乱射事件で、初めて未知の次元に突入してしまったと言えるかもしれない。

 なぜならば、58人もの犠牲者を出した凶器は、機関銃のように引金を引きっぱなしで弾倉の全弾を撃ち尽くせる改造市販銃だったからだ。

 こういう自動銃は、突撃銃(アサルト・ライフル)と呼ばれてベトナム戦争中に米軍に普及したが、70年代半ばに戦争が終結した後、製造会社が全自動機能を除いた民間用を盛んに市販し始めた。
 
 機関銃や軍用などの全自動銃は民間に販売されないよう禁止されているが、工業技術製品である以上、本来の最高性能を求めるマニアは後を絶たない。

 そこで、早くから民間用の「元」突撃銃を元に戻す部品が流通するようになった。これがラスベガス乱射事件の犯人に使われていたのである。

 それなら、その部品の製造・販売を禁止すればいいのではないかと誰でも考える。すぐ連邦議会に法案が出され、銃器愛好団体(圧力団体)NRAもさすがに反対しないと表明している。

 しかし、これも誰でも分かることだが、わずか数十ドルから百ドル程度の商品がネットなどで流通するのを、どうやって止めることができるのか。

 部品を小さな部品に細分化して売ることは容易に考えられるし、作り方をネットで探して自作するマニアも膨大な数に上るだろう。

 たとえが悪いかもしれないが、同じ工業製品である自動車も、百年以上もっぱら走りを追求してきたが、とうとう自動ブレーキなどの「事故抑止」に技術開発の方向が変わってきた。

 ラスベガスの悲劇は、もしかすると同じように、銃器の技術開発の方向を変える契機になるかもしれない。

 もしそうであれば、日本が自動ブレーキを世界に先駆けて実用化したように、この分野でも何らかの貢献ができる可能性があるかもしれない。

 米国を銃社会と非難するばかりでなく、建国以来の「銃文化」を理解した上で、技術的なアイデアを提供できるならば、そのほうがより前向きな態度ではないだろうか。(おおいそ・まさよし 2017/10/30)


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