国際政策コラム<よむ地球きる世界>No.313 by 大礒正美(国際政治学者、シンクタンク大礒事務所代表) 令和7年4月29日 トランプよりしたたかなプーチン交渉術 トランプ米大統領は当選前から、「就任したら24時間以内に停戦させる」と豪語した。いまは「あれは冗談だった」と珍しく認めるに至った。 自分の言うことには世界中が従うと思い込む特異な性格だが、少なくとも旧ソ連の伝統を忠実に守っているプーチン皇帝には通用しない。 それがなぜか分からないまま、ウクライナを脅してみたり、すかしてみたり、迷路に迷い込んでしまったように見える。 実は当コラムで何度も取りあげているのだが、ソ連流の交渉術というものは研究され尽くしていて、いまプーチンが実行しているのは、その伝統そのものなのである。 (以下、 2018/05/28コラムから抜粋) もう40年近く前の米中央情報局(CIA)レポートに、こういう記述がある。 <アメリカ人は交渉が成功裡に終わらないと、不安を感じることが多い。つまり文書が完成し、署名、調印、文書の交換が行われることを望む。> <ソ連は伝統的に、交渉を通じて協定を結ぶことよりもむしろ、交渉過程を利用して「ソ連自身の利益を増進すること」に関心をもっている。> (抜粋終わり) どうだろうか? トランプは、なんとかウクライナ側とロシア側の双方から合意文書を取り付けようと懸命になっているが、プーチンは合意文書よりも実質的な利益をトランプに要求し、現在の占領地確保と将来のウクライナの西側離れを保証させようと狙っている。 もう一つ、重要なソ連流交渉術の要素を挙げておこう。これも過去の当コラムから抜粋する。 (以下、2005/02/26コラムより) プーチン大統領は完全に独裁者としてロシアを掌握し、準超大国の地位を回復する意欲を見せ始めた。2008年に大統領任期が終わっても別の肩書きで君臨するだろう、と今から噂されている。世界が期待する「民主化」に背を向けたプーチンは、当然、日本の期待にも逆行してソ連時代の領土交渉に戻ってしまった。 (中略) プーチンは昨年秋、中国との領土問題を最終的に決着させた。両方とも「勝った勝った」と言わないが、実質的に50/50で手を打ったとみられている。しかし、中国側が百パーセントの権利を主張していて、ロシア側が不利なのが明らかだったことから、この結末は「それでもロシアは5割とるんだな」という示唆を与えるものだった。 その実績を背景に、ロシアは日本に対しても「日ソ共同宣言」(1956年)に基づいて歯舞、色丹の2島引き渡しに応じると提案し、「日本が拒否するなら1島たりとも渡さない」(ラブロフ外相)と通告してきた。 それなら、この半世紀にわたる交渉はなんだったのか、ということになるが、それと共に、歯舞、色丹が面積でいうと北方領土のわずか7%にすぎないという事実に注目すべきだろう。 日本に7%を渡すという提案は、すなわちロシアの取り分が93%だとふっかけているわけだ。それに対して日本の要求は4島(百%)だから、ロシアの本音(落としどころ)は、93%の半分で、つまり百に対しては46.5%になる。これは日本に53.5%を渡す「可能性がある」という誘いだと読むことができる。 通常の外交交渉では、双方ともに「51%勝った」と思える決着がベストだとされる。これを「win-win」スタイルと呼ぶ。どちらかが一方的に「勝った」と思うような交渉は「win-lose」スタイルとして、長期的にはよくない決着とされる。 ソ連の交渉術は、CIAを始め西側の専門家によって研究しつくされてきた。日本でも木村汎氏の「ソ連式交渉術」(講談社、1982年)などが公刊されている。プーチンがソ連時代に逆戻りした以上、ソ連式の交渉術を駆使して日本をねじ伏せにかかったとみていいだろう。 すると、この2島引き渡し提案は極めてトリッキーだということが分かる。日本の交渉当事者(外務省、政治家)に、51%以上取れて「勝った」と国民に言い訳できると思わせかねない仕掛けがしてある。 もちろん日本にとっては、北方領土は国後、択捉の2島をふくめて一体であり、これらの島の上に国境線を引くことは全く考えられない。したがって、これら4島すべてをまとめて返還させるためには、ソ連式交渉術以上の方策をもって対抗しなければならない。 結論は簡単である。半世紀以上前から、北方領土を限定して返還せよと要求したのが小さすぎたのだ。ソ連相手には、正直に百パーセントを要求して満額を得ようとしてもまったく無意味だった。百パーセントを得ようとするなら、まず二百パーセントを要求して交渉に入るべきだったのである。 これは決して無謀なことではない。ソ連はポツダム宣言(降伏条件)に反して不法に北方領土を奪取したのみならず、さらに同宣言に違背して60万人以上の日本人捕虜を帰国させず、シベリアに拉致して強制労働に酷使し、うち6万数千人を死亡させている。この賠償を要求しなければならない。 また、ソ連は講和条約を拒否したのだから、日本は北千島18島と南樺太を返せという権利が生じたということができる。 ソ連の独裁者スターリンは、旧ロシア帝国が日露戦争で失った領土を取り戻すということを、国内向けの大義名分にした。それならばソ連の取り分は南樺太だけでいいはずだから、日本は百歩譲ってもそこを狙い所として、南樺太と南北千島列島のすべてをまず交渉に乗せるべきだった。それにプラスして、拉致された旧日本兵の賠償を要求するのがスジだったはずだ。 (抜粋終わり) この説明で分かる通り、プーチンに対してトランプはまず、ウクライナの東・南部4州の占領地域と、11年前に無血併合したクリミア半島から、「完全撤退」せよと要求すべきだったのである。 それがロシアとの交渉に入るスタート台だったのである。 ところが、トランプ大統領は正反対に、ウクライナに開戦責任があるような言辞を弄し、ロシアの占領地をそのまま認めるような考えを、世界を相手に公開してしまったのである。 これほど愚かな「仲介者」は、歴史上にもあまり見ることはできない。トランプはCIAなどの情報機関を敵視し、要員を減らすことに腐心し、上部機関の国家情報長官に下院議員8年の経験しかない女性を任命するなどの、暴挙をあえてやってのけた。 つまり、ロシアとの交渉に数十年の経験のある専門家たちを排除したまま、ウマが合う(と勝手に信じ込んでいる相手の)プーチン皇帝が、自分の言うことに従うはずだと、未だに思い込んでいるのだろう。 さらにもう一つ、ソ連・ロシア交渉術の奥義がある。日本もこれの被害に遭ったのでよく分かる悪例だ。 それは、プーチンを信じ切った安倍晋三首相が、2018年11月14日、シンガポールでの日ロ首脳会談で、「日ソ共同宣言」(1956年)に基づいて、平和条約を締結したあと歯舞・色丹の2島を引き渡す、という(いわゆる2島先行返還)合意を確認した後に起きたことである。 その直後に、ラブロフ外相が、「共同宣言には<主権を引き渡す>とは書かれていない」と茶々を入れたのである。 これでは、大統領の部下であるはずの外相が、ちゃぶ台返しをしたことになってしまう。あたかも反乱のような国内事情だが、実は、これこそがトリックなのである。 ふつうの常識では、首脳同士が合意すれば、それは最終結論なので、ロシアの交渉相手はホッと安心してしまう。ところが、そこからロシア外交の仕上げが始まるのだ。 首脳は、恥ずかしげもなく、「国民や党の幹部たちが満足していないので、もう少しこちらの要求に応えてくれないか」と蒸し返す。 そうすると、相手は、「そこまで言うなら仕方がない。あなたの顔を立てて、要求を呑もう」と譲歩せざるを得ないことになる。 つまり、この場合、歯舞・色丹2島の主権がロシアにあると認めるならば、平和条約締結後に施政権のみを譲り渡す、という提案なのである。 こんな譲歩を日本が認めるわけがない。この交渉はもちろん、安倍完敗で終わったままになっている。 いま、ロシアのウクライナ侵略をどう止めるかという問題が、ロシアの領土拡大をどう「認めるか」という問題にすり替わっているのが現状だ。 なぜそうなってしまったのかは、ひとえにトランプ米大統領が、ロシアの伝統の交渉術に全く無知である事実に起因している。 安倍首相が健在であれば、自分の失敗を例に出して、トランプを覚醒させることができるかもしれない。が、もはやそれは夢の夢と言うしかない。 (おおいそ・まさよし 2025/04/29) |